第15回公演「2025」直前企画 総監督ロングコラム

Posted by theatreminori on 10.2015 主宰者コラム 0 comments
いよいよ11月13日(金)に初日を迎える「2025」。今回も脚本から演出、舞台監督、宣伝美術、広報など多岐にわたって担当する総監督の椙田佳生から、作品の根幹に迫るような、壮大な独り言を紹介します。公演をご覧になる前にお目通しいただけると、より一層深い視点と興味を持ちながら「2025」をお楽しみいただけるはずです!



10年もあれば価値観は逆転する―。

今回の物語はタイトルが示す通り、今から10年後をイメージした作品です。10年間で世界はどのぐらい変わるのでしょうか?これまでの常識が一転して非常識になっている可能性はないのでしょうか?

「2025」の中で示されている仮説は「大きな価値観の逆転」です。そのターゲットのひとつが「インターネット」です。利便性、即時性、拡張性などのメリットが受け入れられ、現在では重要な意味を持つコミュニケーションツールにさえなっているこのシステムですが、同時に数多くのリスクも抱えています。それでもそのデメリットを黙認する、あるいは、そのリスクを前提にしてそれに対抗する手段を講じることで安心と安全を得るという考え方が現在の「常識」になっています。言ってしまえば、この矛盾した綱渡りのようなシステム依存を、誰もが見て見ぬふりをしているわけです。結局のところ、そうやって築かれた主体性のない価値観というものは、たやすく覆されるわけです。

我々にはこれまでなかったツールを手にした途端、それを手にする前の生活に戻れない、想像さえできなくなるという、「その場しのぎの生き方」をしてしまう(そういった楽な選択をしてしまう)弱さがあります。本来価値のなかったものに至極の価値をすり込んでしまうのです。それはインターネットに限らず、学問も宗教にも通じるのではないでしょうか。ただ、学問や宗教は普遍的な歴史の中で培われ、様々な価値観の変貌を経て、より深さと広さを兼ね備えたシンボルに育っています。一方のインターネット文化は、まだまだ熟成さえされていない。いや、あまりにも早すぎる発展を経てしまったがために、受け入れる側のアイデンティティが全く追いついていないように感じます。それ故に、今感じている利便性や安全性などの心象は客観的なものではなく、主観的な思い込み、あるいは右へならえの集団心理に起因していると考えられます。だからこそ、10年の時間があれば、その価値観を逆転させることなど難しいことではないのです。我々がこの10年で傾倒した妄信と逆の展開が10年間で起こることは、ありえないことではないのです。

そんなわけで、「2025」の世界ではインターネットを利用することのない社会が舞台になっています。一度でも「これは悪だ」という認識が蔓延すれば、時代と歴史は変わります。人間の歴史はそういった価値観の逆転(時に革命と呼ばれる)によって成り立っているのです。

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 ▲スマホ、ネットへの依存を描いた第7回公演にも通じる部分があるようだ


人間とロボットの融合を目指す未来―。

「2025」では複数の人間と複数の人型ロボットが登場してきます。時代背景として、すでに人型ロボットが労働力やコミュニケーションパートナーとして一般の社会に浸透し、研究者はより人間に近いロボット開発に力を入れています。人間たちはロボットに依存するのではなく、共存の秩序を保っているようです。これには、ネットワーク社会の神話が崩壊している必要があります。モニター越しではなく実際に向き合ってのコミュニケーションが主流になってくると、ロボットに対しての愛着、その必要性が増加します。ロボットへの依存を抑止するには、より人間らしい「感情」をリアルタイムに表出させるロボットが必要です。それ故に、そんな理想的なロボットの開発はあらゆる立場の国民から大きな興味を得ることになります。

現在の日本のロボット事情から想像する10年後のロボット事情。ロボットを使う側の思いと、そのロボットを開発・研究している側の思いにはどんな共通点と差異があるのか…。皆さんも近くて遠い未来を想像しながら物語をご覧ください。果たしてロボットとは何なのでしょうか…?
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 ▲フライヤー、チケットにも使われている通称「共存ライン」は制作の力作


マイナンバー制度そのものを危惧したのではない―。

あらすじやキャッチコピーから、今回のモチーフはまさに今話題の「マイナンバー制度」ではないかと思われる方も多いでしょう。確かに素材の一部として取り入れさせてもらっていますが、この作品ではマイナンバー制度そのものに対する危険性を描いたのではなく、こういった国を挙げての大きなプロジェクトの裏側には何かの思惑が潜んでいるのではないかという想像の部分が核心になっています。

現在の日本ではマイナンバー制度への不安(と評されている世論)だけが先走っていて、正確な情報を得られていない人が多いように感じます。こういった変革や新しい制度へのネガティブな価値観の浸透というのは、人間の集団心理なのか、日本という国の特徴なのか、そこまではわかりかねますが、こういった人間の価値観の脆弱性、気付かぬうちに大勢に扇動されてしまう怖さを、ひとつの側面から切り出してみました。振り返れば、年金番号を応用した国民皆番号、住基ネットなど、国が目指してきた思惑はどこかでつながっているようにも感じます。その思惑の一つの仮説がこの物語の核心でもあります。


Safe Social Nationのモチーフは「セーフ・コミュニティ」―。

フライヤー、チケットなどにシンボルマークが登場してくる「SSN」こと「安全社会国家~セーフ・ソーシャル・ネーション~」とは、この物語の中で国連のような俯瞰的組織が認める一種のステイタスという設定です。これは、昨年まで豊島区が熱心に取り組んでいた「セーフ・コミュニティ」の認証を得る活動がモチーフです。行政側がこういったコミュニティへの価値を高めるステイタス獲得に本腰を入れて動いていたのです。企業で言えば「ISO」「プライバシーマーク」などに匹敵するのでしょうか。当然そこには多大なリスクとコストを投入しているはずです。

先述したように国家を挙げてのプロジェクトいう共通項と、なんとなく住民にも利潤が還元されるのではないかという甘い期待、いわゆる本当の企みをごまかす偽善的なカモフラージュという役割が「SSN」には与えられています。大衆を扇動するには、価値観をフォーカスすること、つまり大義名分が必要なのです。この物語の中では、この「SSN」の理念を大義とし、その実現を目指す人々の思惑が絡み合うことになります。

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  ▲SSNのシンボルマークは総監督がデザイン


より自然な感情表現を―。

ここからは物語そのものではなく、舞台として、役者たちのパフォーマンスについてお話しします。てあとるみのりの役者たちは、役者を営む、あるいは役者を志望する人たちだけではありません。ハートランドみのりという精神・知的の障がいを持った方々が集う事業所の利用者が多数出演しています。彼らに常々課してきたことは障がい者としての妥協ではなく、役者としての進化です。とは言え、彼等にも彼らの事情があり、一般的な役者を目指す人間とはレスポンスに差があります。どうしてもセリフを丸暗記することから抜け出せない、相手のセリフを聴けない、キャラクターの心情を推し量れないなど、役者としては致命的ともいえる欠点ばかりが目立ってしまいます。

それでも彼らは演じることで自分を変えたいと強く願い、諦めることなく舞台に立つ情熱を握りしめています。私は毎回、そんな彼らの特徴(ストレングス)を引き出せるようなキャラクター作りと表現方法を意識して作品を創っています。そして今回の「2025」では、登場人物の特徴をより色濃く表現できるようなバランス(設定、配役、演出など)を創出できたような気がします。あくまでも本番直前の通し稽古までの印象ですが、過去のてあとるみのり史上、最も感情の流れ、人物の特徴、会話の流麗さが表現されている作品に仕上がりました。

…と、評価したところで水を差すようですが、彼らには「明日は別人」というスリリングな魅力があります。稽古の時だけではなく、日常的にも期待と裏切りの連続です。それでも彼らは舞台に立ち続けています。私が命じたわけでも、誰に指示されたわけでもなく、自分の意思で。この思いが役者としての表現に反映されるよう、私も作品創りにおいて研究を深めなければいけません。


これからのてあとるみのりに必要な舞台とは―。

現在、てあとるみのりの興行収入は先述したハートランドみのりにおけるあらゆる活動経費の財源になっています。てあとるみのりには収益を得なければいけない使命、存在意義があるのです。ただ細々と公演していればいい、なれあいの興行では意味がありません。ハートランドみのりの様々な活動を支えるためにも、発展と深まりがなければいけません。しかし、現状は目立った発展を示せない数年間を過ごしています。団員のチケット販売能力の低さ(収入を確保できない)、役者の能力の伸び悩み(リピーターを獲得できない)という要因が根深く存在しているのです。「そんなことないですよ」とのやさしい励ましのお言葉が寄せられることもありますが、ここ数回の興行の集客数を見れば、そのお言葉がお世辞であることは明白です。世間はそんなに他人のやっていることに寛容でもないし、興味もない。回を重ねれば重ねるほど、それが「特別なこと」である意識は薄れ、演じる側にも突き動かされるような衝動や執念は消えていきます。まさにマンネリ化。

どんなムーブメントにも必ずこういった波形は訪れるものです。栄枯盛衰と言いたいところですが、まだまだ栄えてもいないのが我々です。この「2025」が終わってから先のことを、改めて深く考える必要があるようです。時にそれは悲劇的な決断に至るかもしれません。一転して挑戦的な野望が芽生えるかもしれません。ただ、ひとつ確実なのは「変わらない」ことはありえないということです。変わらなければ明日はありません。それは芝居そのものを言い表しているような、恒久的なジレンマなのかもしれません。


この「2025」がてあとるみのりの現在―。

そんな様々な思いを抱えて臨む第15回公演「2025」。この作品の特性上、時を置いて再演することはまずないでしょう。今だからこそできる、今だからこそ至ってしまった我々の表現とメッセージを、ぜひとも肌で感じていただきたいところです。てあとるみのりが今どこに立って、これからどこへ向かう可能性があるのか…。それを示しているのが「2025」なのですから。

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