夏休みが明けての8月20日(木)。ついにこの日が来たという感じです。そうです、この日は「2025」初の通し稽古の日です。午前中の制作部では衣装の打ち合わせが行われていましたが、いつもより30分ほど早く切り上げて、会場の準備を実施しました。制作部のメンバーのほとんどが役者を兼ねているので、そのままセリフや発声の練習を自由に行う時間となりました。

お昼休みを挟んで通し稽古です。開始前に主宰の椙田から、これから本番までに意識して取り組むべきことの説明がありました。全体でいい舞台を創るために、これまで足りなかったものと、これから培っていくものがはっきりしたところで、いよいよ通し稽古です。明確に脚本を手放す時期を設定していませんので、ほとんどの役者が脚本を時々確認しながらの演技となりました。





以前は脚本を手放す期限を設定していたのですが、ここ数年は演出から特にそのような期限を伝えていません。何度かの経験の中で、役者たちがどのタイミングで脚本を手放し自由な演技の楽しみに身を投じれば、円滑に己の演技が仕上がるかを体験して身に着けたであろうと判断しているからです。本番まで数回しか通し稽古はできないことも周知の事実。そのわずかなチャンスを己のため、全体のためにどう生かすかは、あえて伝えなくても理解しているのではないかと考えていたからです。
役者たちは緊張感を持って、己の準備を体現するために精一杯演じていました。その努力と奮闘は評価に値します。通し稽古を成功させるためによく頑張ったことは紛れもない事実です。しかし残念ながら、この日の通し稽古で脚本を手放した役者はわずか1名だけでした。まだまだ先を見据えて役者自身が己のパフォーマンスをマネジメントしていくだけの主体性は根付いていないようです。稽古とは成功することが意義ではありません。失敗から学び、より己を高めるための時間が稽古です。稽古を無難に切り抜けたところで、何の成長にも、作品の品質向上にもなりません。
なぜ、「あの人も脚本を見ているから自分も見ていいだろう」という逃げの正当性を模索するのでしょうか。「だったら自分は挑戦して出し抜いてやろう」という気概やプライドはないのでしょうか。まだまだ、悪い意味で周りを気にして、低いラインに足並みを揃えて甘えてしまう体質は抜けきっていません。そんな舞台のどこに楽しみがあるのでしょうか。そんな課題が改めて浮き彫りになった通し稽古でした。
役者たちはそれなりに上手くまとまったことに安堵している面もあるでしょうが、運営側は全く逆のことを考えているのです。これもまた舞台という総合芸術、人間としての成長の場になり得る世界の面白さですね。