
制作部ではグッズ製造が本格化しています。予告編動画から衝撃を受け、いてもたってもいられなくなった団員も緊急参戦。必死にグッズのコンセプトや思いをプレゼンしていました。最終的には全員で審議をして、開発が認可されています。「ここは大切な居場所のひとつ」とてあとるみのりのことを称したこの団員。決して体調が万全というわけではなく、様々な事情のある中で、ひとつの作品、ひとつの拠り所が、生きる力の一部になっていることはてあとるみのりとして名誉あることです。
そんな身近なところからの期待を受けて行われた午後の稽古。いよいよ本番までラスト3です。その重圧からなのか、序盤は全くいいところのない、ひどい内容でした。先週の稽古が半分自主練習になったことの影響なのでしょうか?演出からは「先週より退化している」「歴代最悪の出来」「本当に脚本を読んでいるのか?」という厳しい言葉が次々に突き付けられました。その矛先はセリフを必死になぞっている、頭で再生するばかりの演技に向けられていました。歴史の年号を覚えて褒められるのは小学生まで。その歴史が持つ意味まで理解しなければ意味がない…と例えられたセリフの形とその中身を把握することの違い。これまで何度も説いてきた内容でしたが、どうしても演技にその答えを反映できない役者たちがいました。これではキャラクターの魅力、妥当性が何も伝わってきません。演劇という媒体である以上、いくら頭で考えて悩んでも、その答えが表現できなければ意味がないのです。

もっとその場で起こった出来事に素直に向き合い、物語の中の人物としてやり取りを楽しむ。かつて即興稽古で何度も実感していたはずの感触。頭と心を整理してもらう休憩時間を挟むと、役者の何人かは思い切りが付いたのか、その感性を発揮し始めました。正確なセリフのやり取りに配慮して小さくまとまるより、多少のブレがあっても勢いは失わない。ドラマとしてはこちらの方がはるかに魅力を感じました。

この局面で問われるのは、いかに脚本を読んでいるのか?自分のセリフを覚えるために、自分のセリフだけを読んでいるようでは、この思い切りには至ることができません。今回の変化の中で、日々の取り組みの成果が底力として発揮された役者と、明らかに脚本を読み込んでいない役者の差が明確になってしまったのはうれしさと悲しさが半々でした。全員に授けられた「ひとりが頑張っただけでも、ひとりがサボっただけでも、いい舞台は創れない。全員で力を合わせて創っていこう!」という演出からの言葉は、彼らの胸にどう響いたのでしょうか?

ここまで来れば、やるべきことははっきりしています。我々は不器用でも行動を、勇気を示し、もがき、泣きじゃくり、苦しみながらも動き出した仲間には手を差し伸べ、共に苦しみを分かち合い、喜びを共有します。それこそが、私たちが劇団員という絆で結びついている証なのです。
「ひとりが頑張っただけでも、ひとりがサボっただけでも、いい舞台は創れない」