てあとるみのり総監督の椙田です。皆様のご支援を賜りまして、無事に第23回公演「UNKNOWN」を終えることができました。わが国でも徐々に新型コロナウィルスに関連する具体的な行動要請が発信され始めた最中の公演にもかかわらず、多くのお客様にご来場いただけましたことは、まさに感謝の一言以外の何物でもありません。
さて、今回はそんな「UNKNOWN」という作品について振り返ってみます。「UNKNOWN」の未知の部分を公開してしまおうというわけです。演劇という芸術活動も活動自粛の波に飲み込まれつつある今、少しでも皆様の楽しみになれば幸いです。
「UNKNOWN」というテーマ
そもそもこの作品のルーツは、2月上旬に開催される「#演劇的な一日 in 大塚2020」のための物語作りにありました。この地域演劇交流イベントでは、全団体が共通のテーマを自由に解釈した作品を自由な(演劇的な)表現技法を用いて発表するという取り決めがあり、今回のテーマが「みち」だったのです。漢字ではなく仮名で「みち」なのがポイントで、「道」「満ち」「三千」など、自由に解釈できる(むしろ幅広く解釈してほしい)という運営側のリクエストがありました。そこでストレートに「道」ではなく「未知」という意味を採用することにしました。これが2019年11月初旬のこと。イベント運営側に提出する資料に、タイトル「UNKNOWN」と、キャッチフレーズ「未知なる存在UNKNOWNを解放せよ」という言葉が先行して記載されました。キャッチフレーズに関しては制作の石塚が「なんか、かっこよくない?」という発想で提示してきたもの。当然、この時点で脚本や原作ができていたわけでもなく、全てはこのお題の設定からスタートしたのです。
最初に描いていたのはゲームの世界
未知なる存在をどう描くか考えていく中、VRゲームの世界というひとつの着地点を見つけました。脳波に共鳴して、思いのままのヒーロー(中二病)体験ができる「チューニング」というゲームが開発され、そのテストプレイを主人公が行うという物語です。ゲームを進める中で、なぜか思い通りにいかない展開が訪れ、それが未知の存在の介入によるもので、そのUNKNOWNを倒すために戦ううちに、隠された真実に気付くという…ハリウッド映画っぽい展開です。中二病の資質が高い人ほど優れた「チューニング」プレイヤーになれるという、ユニークな設定が与えられていました。しかし、この妄想力とUNKNOWNとの関わりにいまひとつ結びつきの強さを感じることができず、路線を変更。ゲームという要素を排して、アプリとのVR交流ができるという方向に物語を整理していきました。こうして「UNKNOWN」は形を整えていったのです。
未知なるものとして感情を設定
表面的な未知なるものはすぐに思い付きました。見たことない景色、行ったことない場所、初めて会う相手などがそれで、我々がそこに生じる不安を解消または軽減するために事前にインターネットから様々な情報を得ている文化が根付いていることもすぐに思い付きました。しかし、それをそのままテーマにしては深みがないので、そういった行為の動機になっている「不安」というネガティブな要素に着目しました。そこから人間の感情とは何なのか、という分析が始まり、カルフォルニア大学のAlan S.Cowen氏が2017年9月に公表した論文にたどり着きました(
参考資料リンク)。人間の基本感情が27種類。それらのブレンドで2,185の感情表現に分類できるのだという研究論文です。言うまでもなく登場人物「謎の少女」のナンバリング「2185」はここから採っています(論文では単純な不安が2,185番目の感情ではありませんでしたが)。こうなってくると、この2185という数字を生かす方法で発想が進みます。アプリそのものというよりもそれを動かしている人工知能(AI)に目を向けようと考え、人間らしいAIとは人間の全ての感情を適切に表現できるAIなのだろうという理屈から、2,185種類の感情AIの集合体「リエゾン」が誕生したのです。
「リエゾン」のネーミングの意味
リエゾンという言葉はフランス語で「連絡」「連携」「つなぐもの」「結びつき」といった意味を持つ言葉です。この言葉だけでも、劇中で描かれていた、ユーザー(マスター)に寄り添った案内人のような存在にピッタリです。もちろん、その線で名前の候補を探していましたので、この時点では「リエゾン」以外の言葉も候補に挙がっていました。
しかし、決め手になったのは「リエゾン」が持つもうひとつの意味で、フランス語の発音で度々登場してくる、文字の並びによって二つの音がひとつになってしまう、普段は読まれない文字が発音されるなどの音便のような現象のことです。姿を変えて認識させてしまう、統合させてしまうといったニュアンスを感じたため、この物語のメインAIのイメージにピッタリでした。そんな意味を知らずとも、「リエゾン」という言葉の響きに、AIっぽさと、不思議な親しみを覚えてしまった人も多いのではないでしょうか。言葉の響きとは面白いものですね。
BVRの研究施設はつくば市?
並木研究主任がBVRシステムとリエゾンを開発した研究所はつくば市にある…という明確な設定はないのですが、実は、登場してくる人間の名前はつくば市に存在する地名から採っています。並木、谷田部、吾妻…。地図を見ながら、音としての響き、つくば市の中心部からの距離などを吟味して設定しました。劇中「人里離れているからね」というセリフが登場するのは、つくば市ありきの話ではなく、秘密基地のような研究施設なので都心にはないという設定からです。
セブンとメビウスのルーツはタバコ?
アップデートファイルレベル7、通称「セブン」は物語後半で人間によるAIやシステムの統制の象徴として登場してきます。猛威を振るったセブンも、何者かによって仕込まれていた上位プログラムによって駆逐されてしまいます。それがメビウスでした。セブンの上位なのでナンバリングするのであれば「エイト」になりますが、劇中では明確にそう名乗らせず最後まで「メビウス」で通しています。これはメビウスリングが「8」と同じ造形であることと、「セブンのアップデート版がメビウスである」という昔からの愛煙家にはわかるであろう洒落からです(
参考校資料リンク)。セブンの衣装に金色を入れたのは、古い「セブン」タバコのパッケージのイメージです(もちろん鎧のようなイメージもありました)。そして奇しくもメビウスを演じた石塚が好んでいたタバコが「メビウス」でした。
実際にはこれだけがネーミングのルーツではなく、BVRに依存した人間にとっての楽園構想を主張するロジックの持ち主である「セブン」は「第7天国(セブンスヘブン)」の思想にも関連しています。また、そんなセブンがエイトに駆逐される様は、WindowsのOSが7から8で全くの別次元に変化したこともイメージされています。
AI達は個性重視にアレンジ
劇中に登場してきた様々なAI(アプリ)は、一般的なイメージにこだわることなく、演者の個性を第一に考えて大胆なアレンジを施した。フォトショップと思われる「写真屋」が和風だったり、「Yマップ」が妙にワイルドかつ自由(あまり優秀そうでない雰囲気)だったり…。その他のアプリAIたちもかなり個性的にしました。そのため一度完成した脚本を配役が決まった時点で書き直しています。役者の個性を輝かせることで、お客様に理屈ではない表現として違和感を与えずに成立させることができました。
あのシーンはバルス?MGS?
リエゾンと謎の少女(2185)が手を取り合ってアンノウンを解放する名場面。お客様から「バルス」だとのご感想を何件かちょうだいしました。このシーンに関してはそれを意図した演出はつけておらず、演じている本人たちが「プリキュアだ!」と盛り上がって構築された所作でした。脚本としてはガンダムのアムロとララァのシーンをイメージしたのですが、まあ、そのあたりは世代の違いですね。
ラストシーンの吾妻の電話は、「メタルギアソリッド」のラストの真似(形式的な)です。正直なところ、あのシーンは蛇足かな…と最後まで迷っていました。真の平等とは真の競争の幕開けで、それまで強引に去勢していたマイノリティが解き放たれ、いつかマジョリティが追い抜かれる恐怖がある…というひとつ前のシーンまででも十分だった気もします。しかし、それを企図している大国がおいしいところを持って行こうとしている様(結局は支配や統制に世を正したいという人間の愚かさ)を、ひとつの問題提起として印象付けるために導入しました。もともとメビウスという存在は吾妻によって仕込まれていたアンノウンプログラムであるという裏設定があったので、その裏付けも果たしたかったという狙いがありました。AIという夢の技術をめぐって、すでに列強各国は覇権争いを繰り広げているのでしょう。今も続く宇宙開発のように。それこそ我々が恐れるべきUNKNOWNなのでしょう。それを描けたことでは、付け加えて成功だった気がします。
さて、そんなこんなでお届けいたしました、「UNKNOWN」誕生秘話。皆様が受け取った印象のルーツが意外なところにあったかもしれません。しかし、それが正しい、間違っているという比較をする必要はありません。すべての方にそれぞれの物語のテーマが浸透してこそ、制作者冥利に尽きるというものです。ぜひ皆様が感じたテーマや印象に残るシーン、人物などをお聞かせいただけると嬉しいです。それでは、また劇場で。
いよいよ11月13日(金)に初日を迎える「2025」。今回も脚本から演出、舞台監督、宣伝美術、広報など多岐にわたって担当する総監督の椙田佳生から、作品の根幹に迫るような、壮大な独り言を紹介します。公演をご覧になる前にお目通しいただけると、より一層深い視点と興味を持ちながら「2025」をお楽しみいただけるはずです!
10年もあれば価値観は逆転する―。今回の物語はタイトルが示す通り、今から10年後をイメージした作品です。10年間で世界はどのぐらい変わるのでしょうか?これまでの常識が一転して非常識になっている可能性はないのでしょうか?
「2025」の中で示されている仮説は「大きな価値観の逆転」です。そのターゲットのひとつが「インターネット」です。利便性、即時性、拡張性などのメリットが受け入れられ、現在では重要な意味を持つコミュニケーションツールにさえなっているこのシステムですが、同時に数多くのリスクも抱えています。それでもそのデメリットを黙認する、あるいは、そのリスクを前提にしてそれに対抗する手段を講じることで安心と安全を得るという考え方が現在の「常識」になっています。言ってしまえば、この矛盾した綱渡りのようなシステム依存を、誰もが見て見ぬふりをしているわけです。結局のところ、そうやって築かれた主体性のない価値観というものは、たやすく覆されるわけです。
我々にはこれまでなかったツールを手にした途端、それを手にする前の生活に戻れない、想像さえできなくなるという、「その場しのぎの生き方」をしてしまう(そういった楽な選択をしてしまう)弱さがあります。本来価値のなかったものに至極の価値をすり込んでしまうのです。それはインターネットに限らず、学問も宗教にも通じるのではないでしょうか。ただ、学問や宗教は普遍的な歴史の中で培われ、様々な価値観の変貌を経て、より深さと広さを兼ね備えたシンボルに育っています。一方のインターネット文化は、まだまだ熟成さえされていない。いや、あまりにも早すぎる発展を経てしまったがために、受け入れる側のアイデンティティが全く追いついていないように感じます。それ故に、今感じている利便性や安全性などの心象は客観的なものではなく、主観的な思い込み、あるいは右へならえの集団心理に起因していると考えられます。だからこそ、10年の時間があれば、その価値観を逆転させることなど難しいことではないのです。我々がこの10年で傾倒した妄信と逆の展開が10年間で起こることは、ありえないことではないのです。
そんなわけで、「2025」の世界ではインターネットを利用することのない社会が舞台になっています。一度でも「これは悪だ」という認識が蔓延すれば、時代と歴史は変わります。人間の歴史はそういった価値観の逆転(時に革命と呼ばれる)によって成り立っているのです。

▲スマホ、ネットへの依存を描いた第7回公演にも通じる部分があるようだ
人間とロボットの融合を目指す未来―。「2025」では複数の人間と複数の人型ロボットが登場してきます。時代背景として、すでに人型ロボットが労働力やコミュニケーションパートナーとして一般の社会に浸透し、研究者はより人間に近いロボット開発に力を入れています。人間たちはロボットに依存するのではなく、共存の秩序を保っているようです。これには、ネットワーク社会の神話が崩壊している必要があります。モニター越しではなく実際に向き合ってのコミュニケーションが主流になってくると、ロボットに対しての愛着、その必要性が増加します。ロボットへの依存を抑止するには、より人間らしい「感情」をリアルタイムに表出させるロボットが必要です。それ故に、そんな理想的なロボットの開発はあらゆる立場の国民から大きな興味を得ることになります。
現在の日本のロボット事情から想像する10年後のロボット事情。ロボットを使う側の思いと、そのロボットを開発・研究している側の思いにはどんな共通点と差異があるのか…。皆さんも近くて遠い未来を想像しながら物語をご覧ください。果たしてロボットとは何なのでしょうか…?

▲フライヤー、チケットにも使われている通称「共存ライン」は制作の力作
マイナンバー制度そのものを危惧したのではない―。あらすじやキャッチコピーから、今回のモチーフはまさに今話題の「マイナンバー制度」ではないかと思われる方も多いでしょう。確かに素材の一部として取り入れさせてもらっていますが、この作品ではマイナンバー制度そのものに対する危険性を描いたのではなく、こういった国を挙げての大きなプロジェクトの裏側には何かの思惑が潜んでいるのではないかという想像の部分が核心になっています。
現在の日本ではマイナンバー制度への不安(と評されている世論)だけが先走っていて、正確な情報を得られていない人が多いように感じます。こういった変革や新しい制度へのネガティブな価値観の浸透というのは、人間の集団心理なのか、日本という国の特徴なのか、そこまではわかりかねますが、こういった人間の価値観の脆弱性、気付かぬうちに大勢に扇動されてしまう怖さを、ひとつの側面から切り出してみました。振り返れば、年金番号を応用した国民皆番号、住基ネットなど、国が目指してきた思惑はどこかでつながっているようにも感じます。その思惑の一つの仮説がこの物語の核心でもあります。
Safe Social Nationのモチーフは「セーフ・コミュニティ」―。フライヤー、チケットなどにシンボルマークが登場してくる「SSN」こと「安全社会国家~セーフ・ソーシャル・ネーション~」とは、この物語の中で国連のような俯瞰的組織が認める一種のステイタスという設定です。これは、昨年まで豊島区が熱心に取り組んでいた「セーフ・コミュニティ」の認証を得る活動がモチーフです。行政側がこういったコミュニティへの価値を高めるステイタス獲得に本腰を入れて動いていたのです。企業で言えば「ISO」「プライバシーマーク」などに匹敵するのでしょうか。当然そこには多大なリスクとコストを投入しているはずです。
先述したように国家を挙げてのプロジェクトいう共通項と、なんとなく住民にも利潤が還元されるのではないかという甘い期待、いわゆる本当の企みをごまかす偽善的なカモフラージュという役割が「SSN」には与えられています。大衆を扇動するには、価値観をフォーカスすること、つまり大義名分が必要なのです。この物語の中では、この「SSN」の理念を大義とし、その実現を目指す人々の思惑が絡み合うことになります。

▲SSNのシンボルマークは総監督がデザイン
より自然な感情表現を―。ここからは物語そのものではなく、舞台として、役者たちのパフォーマンスについてお話しします。てあとるみのりの役者たちは、役者を営む、あるいは役者を志望する人たちだけではありません。ハートランドみのりという精神・知的の障がいを持った方々が集う事業所の利用者が多数出演しています。彼らに常々課してきたことは障がい者としての妥協ではなく、役者としての進化です。とは言え、彼等にも彼らの事情があり、一般的な役者を目指す人間とはレスポンスに差があります。どうしてもセリフを丸暗記することから抜け出せない、相手のセリフを聴けない、キャラクターの心情を推し量れないなど、役者としては致命的ともいえる欠点ばかりが目立ってしまいます。
それでも彼らは演じることで自分を変えたいと強く願い、諦めることなく舞台に立つ情熱を握りしめています。私は毎回、そんな彼らの特徴(ストレングス)を引き出せるようなキャラクター作りと表現方法を意識して作品を創っています。そして今回の「2025」では、登場人物の特徴をより色濃く表現できるようなバランス(設定、配役、演出など)を創出できたような気がします。あくまでも本番直前の通し稽古までの印象ですが、過去のてあとるみのり史上、最も感情の流れ、人物の特徴、会話の流麗さが表現されている作品に仕上がりました。
…と、評価したところで水を差すようですが、彼らには「明日は別人」というスリリングな魅力があります。稽古の時だけではなく、日常的にも期待と裏切りの連続です。それでも彼らは舞台に立ち続けています。私が命じたわけでも、誰に指示されたわけでもなく、自分の意思で。この思いが役者としての表現に反映されるよう、私も作品創りにおいて研究を深めなければいけません。
これからのてあとるみのりに必要な舞台とは―。現在、てあとるみのりの興行収入は先述したハートランドみのりにおけるあらゆる活動経費の財源になっています。てあとるみのりには収益を得なければいけない使命、存在意義があるのです。ただ細々と公演していればいい、なれあいの興行では意味がありません。ハートランドみのりの様々な活動を支えるためにも、発展と深まりがなければいけません。しかし、現状は目立った発展を示せない数年間を過ごしています。団員のチケット販売能力の低さ(収入を確保できない)、役者の能力の伸び悩み(リピーターを獲得できない)という要因が根深く存在しているのです。「そんなことないですよ」とのやさしい励ましのお言葉が寄せられることもありますが、ここ数回の興行の集客数を見れば、そのお言葉がお世辞であることは明白です。世間はそんなに他人のやっていることに寛容でもないし、興味もない。回を重ねれば重ねるほど、それが「特別なこと」である意識は薄れ、演じる側にも突き動かされるような衝動や執念は消えていきます。まさにマンネリ化。
どんなムーブメントにも必ずこういった波形は訪れるものです。栄枯盛衰と言いたいところですが、まだまだ栄えてもいないのが我々です。この「2025」が終わってから先のことを、改めて深く考える必要があるようです。時にそれは悲劇的な決断に至るかもしれません。一転して挑戦的な野望が芽生えるかもしれません。ただ、ひとつ確実なのは「変わらない」ことはありえないということです。変わらなければ明日はありません。それは芝居そのものを言い表しているような、恒久的なジレンマなのかもしれません。
この「2025」がてあとるみのりの現在―。そんな様々な思いを抱えて臨む第15回公演「2025」。この作品の特性上、時を置いて再演することはまずないでしょう。今だからこそできる、今だからこそ至ってしまった我々の表現とメッセージを、ぜひとも肌で感じていただきたいところです。てあとるみのりが今どこに立って、これからどこへ向かう可能性があるのか…。それを示しているのが「2025」なのですから。
どうも。フェイスブックの投稿がEnterキー一発でできてしまう設定なので、時々作成中の文章やメッセージをフライングアップしてしまうのに、設定を変えずに使い続けるSugiです。前フリはいつもながらですが主宰者カテゴリからの投稿は久し振りです。
ツイッター、フェイスブックではすでにお知らせしていますように、5月28日(火)夜に、前回公演でもお世話になった芝居屋-万-の松本氏との打ち合わせを行いました。それと並行して、以前からチラシに先行して製造を進めていた宣伝素材のバージョンアップ作業も行われました。

チラシは常に持ち歩く、相手に気軽に受け取ってもらうという観点からは、少々大きすぎるのではないか?という発想から、情報告知および、チケット注文・問い合わせ先のホットラインを各自が設定できる機能を持たせた名刺サイズの宣伝カードを作ってみました。ネタの根源はキャバクラの名刺…ではありません。火のないところに煙を立たせました。

印刷は機械で行い、裁断は手作業。一般的に販売されている名刺印刷シートを使用しています。印刷を複合機で行いましたが、どうしても0.1~0.2mmのズレが生じてしまいます。表面は縁なしの画像でインパクトを与えていますので、このわずかなズレも案外目立つのです。何度か微調整して、折衷案でGOサイン。

出来上がってみるとなかなかの雰囲気。これはチケット販売前までの先行バージョンなので、あまり多く印刷していません。ある意味レアです。すでに一部の団員が配布を開始しているはずです。
宣伝素材作成が仕上がる中、松本氏との打ち合わせも実施。主に舞台装置に関するイメージの交流を行いました。話し合っていく中で、第3回公演との比較が頻出してきたので、どこかに当時の公演の動画があったはずという展開になり、松本氏に「チイサナソラ」を初体験していただきました。打合せには装置以外の役割を担う団員も参加していました。こちらには過去作への出演者も含まれており、あの時はこうだった、どうだった…という笑い話で盛り上がっていました。

私も久し振りに3年ほど前の公演の映像を目にしましたが、この当時、どんな思いでこの公演を眺めていたのだろうかと、懐かしさというより不思議な気分になりました。当時の思いが記憶に残っていないのです。何カ所か、タイミングがシビアなところで「セリフを出してくれ」と祈るような思いになっていたことは記憶していましたが、それ以外のシーン、今現在の感情で形容してしまえば、脚本の意図が全く表現されていない低品質の演技の羅列が繰り返される舞台に、何を感じていたのだろうかと。間違いなく、当時であっても自分が観客として客席に座っていたら、怒り狂って退室していたであろう未成熟な舞台。それが多くの観客の前で上演されていたのですから、さぞや当時の私は寛大だったのか、理性的だったのか、向上心がなかったのかどれかなのでしょうか。第3回公演という発展途上の集団に対する妥協(諦め)があったのでしょうか。
思い起こせば、当時は無料公演でした。お客様が対価を払うことのなない環境の中で演じていた「甘さ」があったのかもしれません。しかし、その発想自体が大きな過ちであることに、今は気が付きます。それは、お客様の貴重なお時間を拝借しての上演であったことです。お客様は失うものはない、損はしないという大義名分は妥協を前提にした言い訳に過ぎなかったのです。考えてみれば、私自身数十年前から映画というものを見なくなりました。その理由は「時間の無駄」だからです。客観的に持ち続けていたこの視点も、ついつい作り手の立場になるとぼやけてしまうことがあるのかもしれません。そういった意味では、過去の映像の中で繰り広げられる惨劇は、私自身のストイックな創造者魂の未熟さを映す鏡のようでもあります。全てがあの程度の品質だった。それだけのことなのでしょう。
しかし、そんな稚拙な舞台であったにもかかわらず、多くの観客と関係者の心をつかんで放さない「チイサナソラ」とは不思議な作品です。この高揚感は錯覚なのでしょうか?後から美化された記憶の改ざんなのでしょうか?
私自身、過去の映像を見ながらそんなことを考えて、すぐにその答えに気付きました。しかし、答えは胸の内に秘めておきます…と言いますか、てあとるみのりで新たな作品を世に発信し続ける中で、常に胸に秘めていた思い、目指していたステージがその答えだったので、あえて論じる必要はないでしょう。共に歩んできた関係者ならすぐにわかるはずです。
同時に、てあとるみのりが着実に成長し、正しい道を進んでいることも実感できました。映像の中の「チイサナソラ」から、わずか3年ほどで通過したした「そこにあるもの」。言い得て妙なタイトルに、ひとり感慨に浸っております。もちろんこの瞬間だけ。いつまでも浸っていては前へ進めません。それは過去への逃走。未来への闘争に非ず。
そんなわけですので、今後ともてあとるみのりをよろしくどうぞ。
キリヒラケ
てあとるみのり第10回公演
「そこにあるもの」2013年3月21日(木)~24日(日)
ハートランドみのりにてチケット販売中(全席自由:1名様700円)→
チケット申し込みフォーム21日(木)18:30開場 19:00開演 残14
22日(金)18:30開場 19:00開演 残4
23日(土)13:30開場 14:00開演 残2
23日(土)18:30開場 19:00開演 残13
24日(日)12:30開場 13:00開演 残6
24日(日)16:30開場 17:00開演 残9残券情報は3月21日12時現在のものです。
※郵送でのチケット受け渡しは終了させていただきました。
※銀行振り込みによる事前お支払対応は終了いたしました。
どうも。久し振りに練習レポート以外のブログを更新するSugiです。
3月17日(日)には、衣装作りの継続と、舞台装置の下準備および実験が行われました。この日は完全に裏方業務ですので、役者の面々には参加してもらっていません。もちろんこれは特別待遇というわけではなく、役者は役者で本番までにやらなければならない準備があるからです。準備をしている内容によって、それを行っている場所が異なるだけで、彼らが何もしていないというわけではありません。

汚し入れの七つ道具…みたいなもの。

何かに使われる素材。どことなく美しい。
衣装作りはスケジュールから遅れており、かなり厳しい状況でしたが、何とか間に合いそうな領域に到達しています。先日の稽古ではあまりにも準備ができていなかったことに対し、私が「この馬鹿者が!」と一喝するイベントもありました。そこからかなりの追い上げです。私からも改善点を遠慮なく伝え、更なる進化のために担当者は素材を持ち帰っています。何着か持って帰ろうか?と分担の提案をしましたが「いや、大丈夫です」「完成させます」と覚悟を込めて断っています。闘いの舞台に立っている感覚が伝わってきます。討死だけはしないようにしてもらいたいです。自分にリフレクト。

今回初めて導入する謎の資材。紙?綿?ビニール?

今回もパネルを立てます。きっと。
舞台装置は芝居屋‐万‐の松本氏を中心に進めてもらっています。もちろん私も一緒にアイディア出し、確認、製造作業を手掛けています。松本氏は実に積極的な好奇心をお持ちで、私も新しいアイディアを実現できるように、一風変わった提案をさせてもらっています。創造の過程において大事なのは、思い付き、つまり閃きを形にしてみる前に諦めないことです。イメージを完全再現することは客観的に考えて不可能であっても、「だから無理」ではなく、ではどうしたらそのニュアンスを伝えられるかを考えることが大切です。それは決して妥協ではなく、時として、より良い選択肢の発見に至る場合さえあります。松本氏からは、そういったクリエーションセンスを感じます。同類です。リスペクトとリフレクト。
このように本日裏方部門は稽古場を占拠しておりました。さて、私はひとまず本業の仕事をサービス休日出勤の中で終え、間もなくパンフレット作りの続きを行います。より良い物を生むために、時間を惜しまずに。それは、みんな同じ。私だけが頑張っているわけではない。そう信じられなければ、できませんから。
どうも。このブログではしばらくご無沙汰しておりましたSugiです。このままでは、更新遅滞のため無料広告がドーンと表示されてしまいそうです。
とは言え、活動を休止していたわけではありません。毎週木曜日の活動も、夜のT.M.Evolutionも、しっかりやっています。2月公演「THE STAGE」は試作脚本が好評で、実際の練習に使用しています。もちろん、本番で使う内容とは若干異なります。人数調整も施さなければなりませんし、30分という規定に収めなければならないのです。内容ががらりと変わってしまう…という可能性も無きにしも非ず。まあ、テイストは残したいですけれど。
さて、更新遅滞の要因は3月公演の脚本です。タイトル未定。現在は第12稿の執筆中です。長い付き合いです。書いても書いても、何の感動もないので、書き直しています。感動というと大げさかつ抽象的ですが、楽しくない、ワクワクしない、誰かに聞いてほしいと思わない、そんな感じです。やっと、ここに来て、ワクワクしてきました。まだまだですけれど。なんとなく、面白い作品になりそうです。まだまだですけれど。
重圧と焦燥の中で、身体と精神にその反応が出現するのはありきたりで、その先の、感性に尋常ならぬ反応が芽生えることが、閃きです。俗に言う、「降りてきた」ってやつです。才能でも運でもなんでもそうです。「持ってる」なんてのは自覚症状ではなく、他者の羨望の念によるラべリングに過ぎません。単なる結果論の無責任な形容。自惚れてはいけません。掴んだものを放さないようにするだけです。
そんなわけで、もう少しお待ちください。私は元気です。